創造的な研究


自然科学の研究は,創造的・独創的なものほど高く評価される。創造的とはどういうことか?一言でいうのは難しいのでここでは書かない(実はよくわかっていないので書けない)。なら書くな,と言われそうなので,私の理解しているレベルで説明を試みる。

自然科学は,一般には,決まった理論があって,決まった方法で,決まった内容を論証すれば,新しいことが理解されるという様に考えられている節がある。このように書くと,いかにも血の通わない無機的な内容を想像されるかもしれない。しかし,そんなクソ面白くもないものを,怠惰な人間が何世紀にもわたってやりつづけるはずがないのである。何世紀もやりつづけてきた,このことだけ考えても,面白くないはずがないのだ,まともに理解できたとしたら

じつは,自然科学的知識というのは,完全なる証拠をもった理論体系は案外少ないのである。というより,あるはずがないのである。

たとえば,ある人が実験Aを行ったとしよう。その結果は,ある理論1によって矛盾無く説明され,さらに,実験Aの結果をうまく説明する理論は他にないとしよう。即ち,理論1は正しいことが証明された,と思ったら,あなたは自然科学(というより"論理"というもの)を理解していない。実験A,理論1現段階で間違っているとは言えないことを証明しただけで,理論1正しいことなど証明していないのである。もし,その時点で構築されていない新しい理論2が将来 構築され,実験Aと矛盾しないのであれば,実験Aは,理論1理論2の真偽を決めることができないことになる。一方,その時点で存在するほかの理論は実験Aと整合しない以上,正しくないことが証明されたことになる。

つまり,ある理論が正しいことを証明するような実験は存在しない。逆にある実験が証明することができるとしたら,その理論が正しくないということだ。自然法則として認められるべき理論は,すべからく実験による検証に耐えなければならない。つまり,"正しい"自然法則は,その時点での実験的検証によって反証されなかったものなのであって,未来永劫にわたって絶対的に正しいことが証明された,というものではないのである。

みんなの知っている自然法則(エネルギー保存則や光速不変の原理)は,実は明日,間違っていることが証明されるかも知れないのである(多分それは無いが)。いずれにしても未来は不透明なのだ。

さて,そのような自然法則を見つける所作というのは,ある意味,砂の上に楼閣を建てようとするようなものだ。いくら建ててもいつ倒れるかわからない。しかし,何か上手い工夫をしてやれば,とりあえず倒れずにすむかもしれない。どうせとりあえずの間倒れなければよいのだから,そのための工夫をしてやればいいのだ。 その工夫を探すのが自然科学の研究だと思ってほしい。つまりいくらでもやりようによって工夫があるのだ。それこそが創造性というものである。

しかし,その創造性ゆえ,自然科学はその成果としての知識獲得のみならず,自己実現の手段となるのである。自然科学と芸術の共通点がここにある。単に役に立つだけが自然科学の効用ではないのだ。

うーむちょっと飛躍したかな。わかったようなわからんたとえでごめんなさい。
 


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